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月光山善光寺 [八郷の歴史]

私たちが米を作っている大田の棚田から歩いて5分ほど、吾国山の南麓に登り始める森の中に、「善光寺」があります。元々は筑波山西麓の山之荘村(今の土浦市)小野にあったお寺を、元禄14年(1701)に大田に移したものです。

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楼門をくぐって急な石段を登り切ると、

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こんもりとした杜の中に今にも崩れ落ちそうな社が現れました。

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正式な名前は「月光山無量寿院善光寺」。廃寺となって久しいこの寺は以前から痛みが激しかったのですが、今年三月の地震で更に酷く崩れ落ちました。

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屋根には草木が茂り、見る影もありません。

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境内に居並ぶ石碑の中に、二十三夜の供養塔がありました。二十三夜の祀りは、勢至菩薩の化身である月を信仰の対象として、「講」の仲間が飲食を共にしながら深夜まで月の出を待つ「月待ち」の行事で、18世紀の後半から昭和の初期にかけて日本の各地で広く行われていました。その際供養のしるしとして建てた石碑が二十三夜(月待)塔です。

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石碑には「文化元年三月吉祥日 大田村講中」と掘られています。時の将軍は31歳の第11代徳川家斉。文化元年は松平定信が「寛政の改革」を遂行してから約10年後のことで、後に江戸幕府の屋台骨を揺るがすことになる腐敗政治のはびこる家斉晩年の天保年間への変遷期に当たります。

幕府の政治の変遷が、関八州とはいえ遠く離れた大田の村の人々の生活にどのように関わったかは知る由もありませんが、今は廃寺となって朽ち果てているとはいえ、柱や梁の名残から善光寺が第十二代小田城主の篤い信仰を受けて、太田の杜にその威容を誇っていたであろうことは想像に難くありません。

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境内に続く旧家の墓石には「正保二年(1645)」とあるので、善光寺が移る以前からここは大田村の先祖が祀られる大切な場所だったようです。

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