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LuklaからPhakdingへ [山登り]

10月の末からネパールのエベレスト・トレッキングに出かけました。エベレスト街道の玄関口Luklaを起点に、ベースキャンプまでの往復約150kmを約3週間かけて踏破しました。この時期ネパールは雨期が終わって気候が安定し、寒さは時に零下十度を下回る程厳しいものの、素晴らしい山々の展望を楽しむことが出来ました。トレッキング道中の景観や、その土地の生活などを紹介したいと思います。

10月31日(水) LuklaからPhakdingへ

首都Kathmanduから国内便でLukulaに飛んだ。Luklaはエベレスト街道への空の玄関口である。

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膝を突き合わせるほどの小型飛行機は、せり上がる山々に腹をこすらんばかりにぎりぎりの高度を保ち、

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衝立のような山の中腹にある猫の額ほどの短い滑走路に着陸した。着陸は急な登りのスロープでかろうじて機体を停止し、離陸はまるでパラグライダーが谷間に落ち込むようである。その地形の難しさと気象の変化の激しさから、これまで幾度となく墜落事故を起こしているが、陸路を取るとなるとKathmanduからJiliまでバスに揺られること6時間、そこから視界の開けない起伏の激しい山道を4,5日かけて越えなければならないこともあって、トレッカーは空路を選ばざるを得ない。

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空港近くのロッジでお茶を飲んだ後、いよいよトレッキングを開始する。チェックポイントで少年が我々のIDを確認をする。

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街道沿いの村々には、マニ車やスートラの石板など、チベット仏教の影響が色濃い。

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ゾッキョ(スイギュウと牛の交配種)やロバが歩くたびに鳴らされる鈴の音、100kg近くある重荷を黙々と運ぶポーターたち、石畳の道、家畜の糞の匂い・・・2年前の記憶が蘇り、懐かしさがこみ上げて来る。

Liklaから今日の宿泊地であるPhakdingまでは標高差200m程の緩やかな下りだが、飛行機でいきなり2700mに降り立った身体は高度に順応しておらず、少しの登りに息が切れる。

午後3時前、Phakdingの宿に荷物を下ろし、近くのSherpa Farmまで散策に出かけた。高度に慣れるには歩くのが一番だ。

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秋の夕日はつるべ落としで、太陽が山の向こうに姿を消すと、気温が急激に下がった。

山登り [山登り]

ここ数日の冷え込みで、

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庭の沙羅の木が色付き始めました。
今日から山登りに出かけます。

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むこうは氷点下だそうなので、何だか服ばかりが目立ちます。

三日月 [季節]

秋の夕陽はつるべ落とし

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木立の合間から射す光が傾くと

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葉の落ちた山桜の枝先に三日月が


日が沈むと急に冷え込んで

121019_05.jpg   火の暖かさが有難く感じられる今日この頃です。

山陰の旅 - 石見銀山 [ちょっと遠出]

日本海を望む山陰道を離れ、石見街道を30分ほど山間に入ると、石見銀山があります。16世紀初頭から大正時代の末まで400年にわたって採掘された石見銀山には、大小600余りの坑道があり、大航海時代の16世紀から17世紀にかけては、世界の銀産出量の約3分の1を占めた日本の銀のかなりの部分が石見銀山で産出されたそうです。

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銀山川と平行した一本の緩やかな街道に沿った集落を抜け、

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鬱蒼とした森の中の道を登ると、鉱山の入口がありました。


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間歩と呼ばれる坑道は、腰をかがめて歩くのがやっとの狭いものですが、1日5交代でようやく1尺進んだということですから、大変な苦労だったでしょう。

鉱山を出て来た道を散策しながらゆっくりと下り、

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街道に面した一軒のお店に入ってひと休みしました。土間で履物を脱ぎ、広い板の間を通り抜け、

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広い中庭を楽しみながらたっぷりのコーヒーを頂きました。

このお店は30年前に夫婦二人で布地の小物の製造販売から始めたそうですが、今では全国の専門店で売られるブランドになりました。


(後記)
今回の旅で島根県の松江、出雲、石見を訪れました。島根県の2012年の推計人口は、全国47都道府県の中で下から2番目の約70万人、東京都の約20分の1、人口密度でいえば70分の1です。

東京が余りにも肥大化し過ぎて、東京からの距離が近いことが何となく文化に近いという錯覚に陥りますが、色々な土地を訪れるにつけ、それぞれの地方に固有の文化が大切に残されていると感じます。

里山の風景を作る田畑や山林などは、そこに住む人の自然と共存する営みがあってこそであり、それぞれの土地固有の文化や伝統は、生活環境と切り離して考えられないもので、それを継ぐ世代がその地に生活を続けてこそ受け継がれるものです。住む人たちの郷土愛が、文化を育むバロメーターだと強く感じた旅でした。

山陰の旅 - 松江 [ちょっと遠出]

出雲大社にお参りした翌日、少し足を伸ばして松江を訪れました。松江城と小泉八雲の旧居を見たかったからです。

松江城は慶長5年(1611年)に初代藩主堀尾吉晴が、宍道湖の北東湖畔亀田山に築城した平山城です。

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クスノキの大木を見上げながら石段を上がると

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入母屋の出窓をつけた5層の天守閣が現れました。


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望楼に登ると、南に宍道湖が見えました。


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宍道湖から引かれた堀川沿いを北に周ると

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程なく小泉八雲の旧居に着きます。


40歳で来日してから東京で亡くなるまでの14年間、松江、熊本、神戸、東京を転々とした小泉八雲がこの家で過ごしたのは僅か5ヶ月という短い期間でした。

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「庭のある侍の屋敷に住みたい」と願った八雲にとって、枯山水の庭を持つ武家屋敷が、日本の美を書に著わす大きな手助けになったことは想像に難くありません。


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旧居の並びに創業120年の和菓子屋さんがありました。茶人としても一流であったといわれる江戸時代後期の松江藩主松平治郷(はるさと)公によって根付いた茶の湯と共に、松江の和菓子も長い歴史を持っています。このお店の初代が創った「朝汐」を頂きましたが、「甘さ控えめ」が流行りの最近では珍しく、「甘くて美味しい」お饅頭でした。

山陰の旅 - 出雲 [ちょっと遠出]

今回山陰に出かける前に、出雲に住む学生時代の友人に会おうと連絡したところ、「たまたまボランティアで出雲の観光ガイドをしているんだよ」とのことで、私たちに半日お付き合いして案内をしてくれました。

学生時代にクラブの先輩の下宿に良く集まった仲間のひとりであるその友人とは、互いに仕事が関西と関東で行き違いだったせいもあり、卒業以来の再会でしたが、物静かな語り口とおっとりした仕草は学生時代そのままでした。

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先ずは腹ごしらえと、出雲大社からほど近いお蕎麦屋さんへ。出雲と言えばやはり割子蕎麦です。

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食事を済ませた後は参道正面から、

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両抱え以上もある松の大木が並ぶ参道の玉砂利を踏み分け、


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御仮殿へ。


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今、本殿は5年の歳月をかけた「平成の遷宮」の真最中で、ようやく終わった桧皮葺の屋根が西の回廊越しに少しだけ見えました。

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来月半ばに始まる旧暦10月の「神無月」は、出雲では日本中の神様が集まる「神在月」で、その時には神々の御宿である東西十九社が扉を開けて待ち受けます。

御仮殿で大社特有の二礼四拍手一礼のお参りを済ませた後、出雲古代歴史博物館に立ち寄りました。

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出雲で出土した400点以上の銅剣、銅矛、銅鐸が一堂に展示される姿は圧巻です。

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屋外の舞台では、美川西神楽社中の人たちによる神楽「大蛇(おろち)」が上演されていました。須佐之男命(すさのおのみこと)が八岐大蛇を退治する有名な物語を題材にしていますが、時に口から火を吹きながら舞台狭しとばかりに繰り広げられる熱演に、観客は拍手喝さいを送りました。

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T君は別れ際に旧大社駅を案内してくれました。平成2年の廃線以来使われていない駅のホームは草蒸していましたが、

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明治45年6月の開業以来親しまれてきた純日本風の駅舎に入って


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鉄路で結ばれた全国各地の名前を見ていると、何となく切符を買う人の思いが伝わってくるような気がしました。

高野山 [ちょっと遠出]

カミさんの親友が無くなってから4年、菩提寺に納骨をされるご家族と一緒に高野山を訪れました。
高野山を訪れたのは、和歌山に住んでいた30年前以来のことです。学生時代からの友は、乳飲み子を抱えて東京から遠路和歌山まで遊びに来てくれたこともありました。無くなった友の面影を残すその乳飲み子も、今では一児の母親となりました。

前日は竜神温泉の宿で夜遅くまで思い出話にふけり、

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翌朝、日高川沿いに竜神街道を遡って高野山に向かいました。

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護摩壇山の展望台からは、深く折り重なる峰々の向こうに、山上ヶ岳から釈迦ヶ岳に至る大峰の山々が見渡せ、そこには1300年来修験道の行者が行き交う奥駈けの道が続きます。

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納骨と直会を終えた後、金剛峯寺の境内から

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参道を進むと


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木々の葉が少し色付き始めていました。


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長い時を感じさせる無垢の寺社が多い中で

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まばゆい程に朱が映える根本大塔の対照が印象的でした。


秋桜 [花・樹木]

昨年数本だけ植えたコスモスの種が、腐葉土を作っている落葉の上に散って

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辺り一面に花を咲かせました。

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薄紅


何の手入れもせずにほったらかしていたので、茎が右に左に曲がりくねって

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ちょっと花瓶に入れてみたら、まるで起きぬけの髪のようになってしまいました。
来年はきちんと手をかけて、綺麗なコスモス畑にしようと思っています。

晴耕雨楽 [音楽]

八郷に来てからの晴れの日は野良仕事、雨の日は音楽を聴いたりギターの練習など、『晴耕雨読』ならぬ『晴耕雨楽』のスローライフとでも言いましょうか・・・

今年の米作りも一段落して、今日は久しぶりにゆっくり音楽を聴きました。

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バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ・・・壮大なフーガを含む三つのソナタと、舞曲から構成された三つのパルティータが、表情を変えながらもまるでひとつの組曲のようなこの曲を、3人の異なった演奏スタイルで聴いてみました。

ヘンリク・シェリング(Henryk Szering)

現代ヴァイオリンの大家のひとり、シェリンクの演奏です。ポーランドに生まれ、デビュー後の青春期を第二次世界大戦のさなかに過ごした彼は、終戦の10年後、37歳の時に全曲を録音していますが、このディスクは1967年、49歳の時にスイスでなされた二度目の録音です。1980年代にクレメール(Gidon Kremer)や後述のクイケンが出現し、それまでのロマン的な演奏が「まるで墨絵に油絵の具を塗りたくったようだ」と批判され、以降盛んになったオリジナル楽器によるピリオド演奏との議論が尽きませんが、和声と対位の造形美を端正に表現する彼の演奏を聴くほどに、バロック音楽のポリフォニーの奥深さに引き込まれます。

シギスヴァルド・クイケン(Sigiswald Kuijken)

バロック・バイオリンによる演奏。1980年代初頭にセンセーションを巻き起こした一度目の録音から約20年後になされた二度目の録音です。古楽器の演奏では、一般に現代の調律より半音階程低く調律をしているので、音のきらびやかさが少し控え目な半面、落ち着いた雰囲気です。演奏スタイルの違いには、現代ヴァイオリンと異なるコマの形状が弓使いに影響しているかもしれません。

ポール・ガルブレイス(Paul Galbraith)

彼は元々は6弦ギターを弾いていましたが、現在は8弦ギターをチェロと同じスタイルで演奏しています。旋律楽器であるヴァイオリンのために書かれた曲を、ギターで弾くと原曲とは全く異なった印象を与えますが、ガルブレイスの演奏を聴くと、ソナタ第二番のグラーヴとフーガは、まるでチェンバロのために書かれたような錯覚を覚えます。どの弦を弾いても倍音が響くギターという楽器の特徴で、ポリフォニーの声部それぞれを個別に消音しなければならないという高度な技術が要求されますが、フーガでは鍵盤楽器に近いギターの強みが発揮されると感じます。実際バッハは無伴奏ヴァイオリンパルティータ第三番をリュート組曲第四番として、同じ曲をヴァイオリンとリュートのために書いているので、彼自身の発想は案外自由だったかもしれません。

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